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執筆:Mocosuku編集部
取材協力・監修:杉山 崇(神奈川大学人間科学部/大学院人間科学研究科教授)
例えば日中、小学校の近くを通った時に子供の元気な声を聞いて、なぜかこちらまで明るく楽しい気持ちになった事はありませんか?
ところが、現在の日本では、子供の元気な声をうるさい、不快と思う人も多いようです。
千葉県市川市で4月に開園予定だった私立保育園が「子どもの声がうるさくなる」という近隣住民の苦情により、計画断念を余儀なくされました。
神戸市では、保育園の近隣住民が、保育園の「子どもの声」に対して、防音設備の設置や慰謝料を求める訴訟を起こしています。
また、2014年に東京都が行った調査では、保育園や公園で遊ぶ「子どもの声」に「うるさい」という苦情が寄せられた区市町村は73%にも及びます。
「子どもの声」を微笑ましく受け止める事のできない現代人の心理とはいかなるものでしょうか。また背景にあるのは、どのような要因なのでしょうか?
神奈川大学人間科学部の杉山崇教授にお話しをお伺いしました。
子供の声を不快に感じる人々の心理と、その背景にあるもの
日本には昔から「子ども責めるな、来た道だ」という言葉がありました。
どんな大人も昔はみんな子供だったわけで、大人に迷惑をかけながら成長したのです。「子どもが大人に迷惑をかけるのは当たり前」という子どもに対して「ゆるい」空気がいつのまにか失われたようです。
私は大人が子どもに寛大になれない理由は二つあると考えています。
一つは、私たち人間は「子どもの声を無視できない」ように作られていることです。
人の子どもは生き物としてはとても弱く生まれてきます。大人が子どもの存在に気付いて守ってあげなければ生きていけません。そこで,種の存続の本能で大人は子どもの声を無視できないのです。
言い換えれば、「何か他のことに集中したいのに子どもの声が気になって…」というのは本能レベルの人間らしさなのです。
これは本来は子どもを守るために、私たちが獲得した心の機能です。
ですが現代社会では逆に「子どもはうるさい」と子どもを排斥する方向に働いてしまっています。
この背景にあるものが二つ目の理由である「大人の余裕の無さ」です。
今の時代、ほとんどの大人は自分が生き抜くだけで精一杯ではありませんか? 日々の暮らしに忙殺されていませんか?
「忙しい」は「心を亡くす」と書きますね。自分のことで忙しいあまり、人間らしい心を亡くしてしまっているのかもしれません。
実は今の時代は数百年来の日本人の生き方の大転換期なのです。
ムラ社会で「ムラ」や「イエ」に依存してきた日本人は近代化してからは「会社」に依存して生きてきました。しかし、グローバル化の中で競争が激しさをまず中で会社は従業員の生活を護る余裕を失いつつあります。
会社依存ではない新しい生き方の模索に必死で、みんな「忙しい」のです。その中で子どもの声が自分たちを煩わせるものに感じられているのでしょう。
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