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正視恐怖と視線恐怖:どうちがうの?
最新のアメリカ精神医学会発行『DSM-5;精神疾患の分類と診断の手引き』では、スピーチなど対人場面で、不安や恐怖を多大に感じ、震え、動悸、赤面、発汗など身体症状をきたしたり、緊張感や不安感が強くなってしまって、対人場面を避けるようになってしまう傾向を、「社交不安障害(SAD)」と名づけています。
その中によくある症状として、人に見られたり、人前で何かをするといった、他人から注目を浴びるような状況で自分のことを低く評価されるのではないかと、不安が強まる症状が挙げられています。
その典型的な例として、「相手に見られることを怖れる」という「視線恐怖症」があります。
最近増えているという専門家の指摘もあります。
こうした「社交不安障害」の概念は、さまざまな対人交渉の結果、自分が恥をかくことを怖れる、というところに焦点が当たっています。
ですから、視線恐怖症は、相手から見られることで自分の評価が下がることを怖れるあまり、「見られたくない」という悩みがこうじていくことになります。
これに対して、「対人恐怖(症)」という概念は、以上の社交不安障害の概念も含みながら、自分が相手を不快にさせたり、迷惑をかけたりといった、他者への影響を怖れることも含んでいます。
これを「確信型対人恐怖症」と呼んでいます。
正視恐怖は、自分が相手の目を見るのが怖いという状態(症状)なので、まさに、確信型対人恐怖(症)の一つのパタンとみなすことができるでしょう。
「察する」文化から生じた?正視恐怖
古来、日本文化の美徳とされる「やさしさ」は、相手のことを思いやり、配慮して、人と接していくことでした。
これは現代でも、世界中から好意をもって日本文化の伝統と見られている面でしょう。
しかしクールにいえば、「思いやる」「察する」という経験は、相手のことを「推測」するという経験です。
「もしこんな風にしてあげたら、かれは喜ぶだろう、だから、先回りしてやってあげよう」とか、「こんな言われ方をしたら傷つくだろうから、いわないでおく」といったように、「察する」文化は、先んじて推測を行為に変換してくことといえるでしょう。
ですから、実際に相手を見て、実際に相手に聞いて、相手が望む対応をしているわけではないともいえます。
もしかしたら、日本人は昔から相手を見ることの代わりに、察してきたのかもしれません。
自分に正視恐怖の傾向があると疑われるなら、相手を見る練習が必要かもしれません。
まずは、信頼できる家族や友人を「見る」ところから始めて、だんだんと初対面の人でも見ることができるようにしていくと、段階を踏んで見ることに慣れていく手もあるでしょう。
【参考】
・アメリカ精神医学会『DSM-5:精神疾患の分類と診断の手引き』、医学書院
・落合滋之監修『精神神経疾患ビジュアルブック』学研
・樋口輝彦他編集『今日の精神疾患 治療方針』医学書院
<執筆者プロフィール>
山本 恵一(やまもと・よしかず)
メンタルヘルスライター。立教大学大学院卒、元東京国際大学心理学教授。保健・衛生コンサルタントや妊娠・育児コンサルタント、企業・医療機関向けヘルスケアサービスなどを提供する株式会社とらうべ副社長
<監修者プロフィール>
株式会社 とらうべ
医師・助産師・保健師・看護師・管理栄養士・心理学者・精神保健福祉士など専門家により、医療・健康に関連する情報について、信頼性の確認・検証サービスを提供
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